何も無いよ


 ただ吐き気がするの




As rust eats iron, So you eats me



 「―っ‥」


 逆行で顔は見えない
 唯、息が止まる程の焦燥感がピリピリと神経を伝わりながら身体中を支配して行く

 「逢いたかったよ…此の日をどれだけ待ち望んだ事だろう」

 「貴方‥は‥」

 深い翡翠が揺れた


 深く深く、肺へ空気を送り込むだけで精一杯だった
 膝は震え、崩れる様にその場にへたり込む

 しかし恐怖とは違う"何か"も感じた

 迫り来る影から鈍く光る、紅焔の瞳

 「あな‥た‥」

 掠れた声で力無く再度呟く

 一見穏やかなそれでいて冷酷なソレに隠された熱い激情に─覚えがある


 「っ!」

 身体中が粟立った
 思い出してはいけないと本能が警鐘を鳴している
 思い出したら最後、築いてきた皆との絆が全て崩れてしまう気がした


 「や…嫌だ‥っ。―来ないで‥!」

 叫ぶと同時に
 男は口元を歪めながらゆやの直ぐ側で歩みを止めた
 紅い瞳が怯えるゆやを黙って見下ろしている
 後ずさる力も入らず、射抜かれた様にそこから動け無くなった
 唯々、声にならない声と断続的に漏れ出る荒い呼吸を震えた喉元から絞り出す

 「あ…あ」
 「‥私を忘れてしまったのかい‥?仕方が無いね‥そうしたのは、私自身なのだから‥」

 男が少しだけ哀しそうに眉を寄せる
 が、次の瞬間には先程と同じ何処か黒い笑みを浮かべて居た

 「っひ」

 徐に伸ばされた腕に、思わず身を縮込ませる
 構わずに、男は腕を頬へと伸ばした
 触れた指先は冷めた瞳とは裏腹に思いの他温もりを持ち、優しい

 男は苦笑を零しながらゆやの頬をゆっくりと撫でた


 「―!何を‥──―っ!!」

 驚いて顔を上げたゆやの眼に飛び込んだのは、一面の紅
 炎の様にくゆらせながら妖しく光るソレが、さも愉快そうに細められていた
 それが男の瞳だと、気付くのにそう時間は掛からず。
 また唇に当たる柔らかな感触が男の舌先で有る事にもすぐに気が付いた

 「─ん…っ──!!!」

 拒絶の言葉を吐こうとしても漏れるのは荒い吐息だけだった。言葉は全て、男の口内に吸い込まれて行く
 何とか逃れようと胸を叩いて肩を押しても細い腕は微動だにしない
 その間にもまさぐる舌は巧みに動きながら口内へ充溢して行く
 口の端から透明な糸が一筋、伝った

 「─っ─っ!!」

 もがいても、もがいてもあっさりと押さえ付けられる

 しかし何故だろう
 唐突なしかも初対面であろう筈の口付けに、微かな懐かしさが疼き出した


 「─っ?!!!」

 一瞬、引き裂かれる様な痛みが脳天に響いた
 身体の芯から沸き上がる様な甘い閃光と微かな記憶がゆやの脳内に何度もフラッシュバックする


 瞳を見開き取り憑かれた様に紅い瞳を凝視した
 それに気付くと、男は漸く名残惜しそうに唇を解放した

 そして至極、嬉しそうに問う

 「思い出したかい?」

 一言で‥しかし真意を突くには十分だった


 どんな強固な織物も綻び始めれば少しの力で簡単に解けてしまう

 それに似て深層心理で溶けかけて居た記憶がたったの一言で一気に溢れ出した


 「わたし‥‥私は‥壬生の―」




 思い出した─何もかも、全て



 当時、壬生に蔓延していた神を殺す呪、死の病

 ある日突然、それは私にも牙を向いた
 そう、壬生一族である私にも

 日に日に弱る身体を抱いて
 助かる術は無いのかとあの人は泣いた

 独りで逝かないでくれと
 口付けを落とし縋った

 私の全てはあの人であの人の全ては私だったから

 けど、私は細やかな希望も抱いていた
 迫り来る死への甘い誘惑
 不偏で冷め鮫として退屈で無色で異常で気が狂いそうな程長い時間からの解放

 大切な人を残して逝く事は何にも変えられない程の苦痛であり大罪だ
 しかし長い間待ち焦がれていた瞬間を拒絶したいとは微塵も感じなかった

 だから伝えた筈だ
 どうか此の侭‥逝かせて欲しい。貴方の手で終わらせてと



 なのに
 それなのに

 「─っ!!!どうしてっ!何故私が生きているの?!!」


 確かに感じる鼓動
 伝う温もり
 溢れ出る涙

 全て捨てた筈なのに―


 「‥ゆや‥」
 「─っ」

 狂おしいまでの情愛が込められた一言に心が揺れた
 蘇るのは愛した人の鮮明な笑顔
 重なり会う記憶と記憶が交錯し弾け飛び目眩がする


 死ななかった
 否、死ぬ事を許されなかった

 反魂術と唯一の治療法と言われた若返りを施され
 病が潜伏・発病する前の健康な赤児へと戻されたのだ

 そして再び病に掛からぬよう、ワザとあの男…椎名望に"外"の世界で引き合わせた
 人間としての過去を植え付けた赤児のゆやを境内に置いて

 早く、自らの運命に巻き込まれてくれるようひたすら願った


 「私は待ったよ…‥再び巡り合える日を。君の居ない世界など重く苦しくて唯々虚しくて‥気が狂いそうだった。
 ‥‥分かっておくれゆや。君の全てが私なんだ。残された寂しさを乗り越えられる程私は強く無い」
 「王‥」
 「また私を愛してくれ。」

 膝を突いて、今度は優しく浅く唇を重ねた
 ‥ゆやは抵抗しなかった。出来なかった。
 驚く程自然に、瞼を閉じ、受け入れた


 久方振りの愛しい彼は

 少しだけ老けて、少しだけ背が伸びて、少しだけ悲しそうで、

 そして変わらない燈を灯ししていた


 (嗚呼‥彼だ‥)

 私が生涯愛した人



 心が麻痺して行く様な感覚
 浸透して行く波に押し流されそうになった時、ゆやの深層心理にある想いが浮かんだ

 「―っ!!」

 我に返り、たんっと抱き締めていた腕を突き放して拒絶した
 唐突でしかも両膝を付いていた為、紅の王はバランスを崩し後ろに手を付く
 しかし体勢を整える事はせず、冷淡な瞳を僅かに見開いてゆやを見据えただけだった

 「―!!」

 ぞく。と、背筋に悪寒が走る
 此の人の眼はこんなに冷たかっただろうか

 「ゆや…?」

 「っ‥…御免なさ‥ぃ。今の私は‥貴方を愛せない。」

 残酷な言葉を吐いたと思った
 突き刺さる視線が居た堪れなくて眼を背ける
 幾ら責められても落胆されても、弁解出来る言葉も無い

 愛していた
 だが所詮それは生まれ変わる前の気持ちだ
 今のゆやには既に過去の想いなど入り込む余地が無い程に埋め尽くされた、新たな想いがあった

 「私は…貴方を愛した私はもう、死んだの」

 記憶を取り戻した所で今更昔に戻れる訳が無いのだ
 たとえ裏切る事になったとしても他者を想う侭王の手を取る事など優しいゆやには出来ない

 「貴方を裏切りたくは無いっ…けど、御免なさい!」

 はらはらと知らずに雫が零れ落ちた
 薄く紅色に染まる頬へと伝い、重力に逆らう事無く落下して小さな水溜まりを作る
 ごめんなさいと繰り返し、泣き伏すゆやを王はじっと眺めて居た
 そしてふいに、体勢を直すとその広い胸元へとゆやを包み込んだ
 
 「今も昔も…君は綺麗な涙を流すね‥。」

 そっと拭った涙が伝わりながら指先に絡まる
 てらてらと艶めくそれに僅かに眼を細めると、まるで味わうかのように舌先で舐め吸る
 肩越しに、ゆやには見えないよう密やかに
 塩辛い…が、仄かに甘い

 「泣かないでくれゆや…。君を責める気は無いよ。」

 「紅の王―」

 「帰るべき私の所へ帰って来てくれた。
 だから全てを許そう。そう……私以外の想い人が居る事も……その、首筋の痣も―」

 口調が、空気が変わった
 先刻垣間見た冷たい瞳が脳裏に過ぎる


 怖い─と感じた

 後ろ髪を鷲掴む指に恐る恐る顔を上げた
 王は、笑っていた。寒気がする位に

 「傍に、居てくれるよね‥私の可愛いゆや‥」

 「あ‥紅のお─」


 ぐしゃ‥と鈍い音がした


 男の名を言い終える事無く、ゆやは瞳を見開いた侭震え出す
 飛沫を上げ、ぱたぱたと大理石で出来た真白い床に黒い血溜りが幾つも作られる
 鉄の様な錆臭い匂いを肺いっぱいに吸い込み王は笑った
 
 「あ‥」


 紅の王─?


 そう叫ぼうとしても最早潰された喉から言葉を紡ぐ事は不可能
 霞み行く視界の中、景色が赤く一色に滲んで行く


 そっと

 割れ物でも扱うかの様に、王は静かにゆやを抱き抱えた
 髪を撫で、頬を撫で、慈しんだ
 けれど優しく甘く満足気に動かない少女に囁きかける

 「苦しいかい‥?大丈夫…少しだけ眠りなさい─すぐに直してあげるよ
 痛みも傷も、全て目覚めた時には忘れている。君のしがらみは全て私が断ち切り滅却してあげるからね。」


 返り血を垂らしクスクスと微笑を零す姿は明らかに異質で異常で
 ‥正気を失っていた


 そう

 王はあの日。壊れてしまった
 ゆやが逝ったあの日に


 そこに在るのは
 置いて行かれた孤独感と愛するものを失う恐怖故の狂気に狂ってしまった、唯一人の男

 人の形を模した抜殻にすぎない



 血に塗れた腕で、人形は笑った

 酷く醜く、残酷な笑味で―











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言い訳のしようがありません。逃

2005・5/20




 

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